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ホスピス開業記

私がホスピスと言う言葉を知ったのは1976年のことであったと思います。それまで医療に関する思想的な問題で、日本の医療について大いに疑問に思っていたところ、驚くべきニュースを読みました。シシリーサンダースというイギリスの女医さんがロンドンにセント クリストファーホスピスを開業運営しているというものでした。末期ガンの患者さんに対し、治療を施さず苦痛のみを取り除き、安らかな死を迎えさせてあげる施設を運営しているというものでした。

いまでこそインフォームドコンセント(良く説明された上での同意)インフォームドチョイス(良く説明された上での選択)と、患者の権利がかなり尊重される時代になりましたが、当時医療はまだまだ医療者、特に医師のワンマン時代でした。

病院に入ればあとはすべてお医者様におまかせ。死のうが生きようが患者、家族は結果を受け入れるだけと言う状況でした。しかし患者にも医療、あるいは治療方法を選ぶ権利はあるはずだ。又もはや死ぬしかないと言う状況になったとき、医療そのものを受け入れるかどうか選ぶ権利も当然あるはずだと思っていました。しかし病院などでそのような主張をしても通る時代ではありませんでした。

もし日本でホスピスをつくれば日本における患者の権利を高める事が出来るかも知れないと思いました。それで是非日本においてホスピスを作ろうと決心しました。しかし私にはお金も地位もありません。しかし作る自身はありました。

スカイラークというレストランがありますが、その第1号店にあるひとに案内されました。当時としては豪華な建物なのに値段は安く提供しており、ビジネスモデルとして新鮮でした。建物は自己資本でなく地主にたててもらって借りるというものでした。私はこの方式でキリスト教の集会施設を建設しました。当初アメリカの本部ではそのような事は信じられなかったそうです。信者でないものが施設つくるなど考えられないと言う訳です。しかし私がはじめたこの方式はひろがり、アメリカ本部ではAikawa Model(有川方式)と呼ばれたそうです。宗教施設でさえ作ってもらえるのなら、もっと身近なものなら、まして世のためになる事なら協力する人もいるだろうと思いました。

私が初めて福祉施設の建設に関わったのは心身障害者の授産施設でした。建設計画にあたり県から支給される費用によると職員に支払われる給料は低いものでした。こんな安い給料で人があつまるのか心配しましたが、予定の10倍もの応募がりました。世の中には良いことをしたいと思っているひとが多いものだというのが正直な感想でした。それで日本の社会に必要な施設であればかならず協力者は現れるにちがいないと確信していました。

すると土地を提供してもよいと言う人が現れました。設計事務所の先生に依頼をしようと相談したところ、ホスピスというのは建築基準法でいうとなにになりますか?と尋ねられました。つまり建築確認を出すにあたり、法律により分類されたものの何に相当するかというわけです。

良く似た施設に旅館、ホテル、病院などがありますが、建設の許可にあたりそれぞれに安全などを考慮した施設の基準がありますが、ホスピスなど、今まで日本にない新しい施設建設にあたり既存の基準のどの施設にあたるか判断しなければなないというわけです。それで県の建築指導課に相談にゆきました。

県の人達にはホスピスとはなにかという説明から始めました。そして県の係のみなさんの結論は「それはやはり病院でしょう」というものでした。それで県の医療指導課にまわりました。しかし県の医療指導課は「素人がなにをほざいている」と言う態度で全然相談にもなりませんでした。資金を含め人材など病院を新たにつくるとなると大変な労力です。おおきく高い壁がたちはだっていると言う感じでした。

そんな時、村山宏二という人物に出会いました。彼は「ゆうゆうの里」という有料老人ホームを作っていました。第1号の施設を浜松に作り、第2号の施設を伊豆高原につくったばかりの時でした。これほど頭のいい人物にあったのは初めてであり、私がまだ若かったせいもありましたが、圧倒されました。彼が老人福祉に関し書いた文章は秀逸なものでした。その彼から「有川さん、ホスピスの前に有料の特養をつくってみないか。」と提案されました。特別養護老人ホームの有料版と言う訳です。それまで幾つかの特別養護老人ホームには関わりましたが、国の補助金をうけてつくる老人ホームは運営にあたり多くの制約があります。もっと自由に運営出来れば老人達がもっと快適に過ごす事ができるのに、と考えていましたから、国などの補助を受けず自由な設計で建物をつくり、独自の考えで運営できれば理想的な施設が出来るのではと考えました。

当時老人ホームといえば入れる方(家族など)に罪悪感があり、本人には敗北感がありました。しかし自分の費用で自分の老後を見るということは誇りをもって老人ホームに入る事を意味しました。

従来の老人福祉の専門家からは嘲笑の目で見られましたが、将来このような施設はかならず日本で必要になるという確信がありました。30年後の日本を見据えていました。今や介護保険の制定もあいまって補助金を受けずに設立される老人施設は多数を占めるようになりました。ホスピスはガンの末期患者を見るのですが、人生の末期、つまり介護を必要とする老人を見るのに通じるものもあるはずだとも思いました。それで介護を必要とする老人ホームの建設を開始しました。

工事が進んでいたある日のこと、新聞に小さな記事が載りました。「日本の医療をよくする会の病院計画頓挫」というものでした。そして日本の医療をよくする会のセミナーの案内も書かれていました。その会の名前に強くひかれました。それでセミナーに参加することにしました。

その会は医師を含む何人もの医療者が集まって自分達で理想的な病院をつくろうとしているグループでした。医療はなにより人です。これほどの人達が集まっているのに病院が出来ないはずはありません。それで会のみなさんに「私が資金と建物を用意するのでみなさんが理想とする病院をつくりませんか。但し条件があります。そこにホスピスをつくることが条件です、」と切り出しました。会の人達に異論があるはずがなく病院建設に向け動きだすことになりました。

しかしここに大きな壁が立ちはだかりました。病院の開設許可です。昔ダイエーの創立者中内氏は大型店舗開設にあたり40いくつかの許可が必要だといって規制の多さに文句をいっていましたが、当時病院は80以上の許認可を必要とし、経済規模からいうと大店舗の比ではありません。弱小な経済規模の上、数多くの関門をくぐらねばならないのです。おまけに当時厚生省は膨れ上がる医療費を抑えるため、地域医療計画なるものを策定しました。人口に応じて地域の入院ベッド数を規制しようというものです。それで地域医療計画策定後は基準以上のベッドが存在する地域には新規の病院開設を認めないというのです。事実上新規の開設は認めないということです。そして病院開設を計画していたものはある日までに届け出よ、その日までに届け出た事業者に従来どおり開設許可を認める、というものでした。

全国で病院開設、あるいは増床を計画している人達が申請しました。当時駆け込み申請と言われていました。しかし我々はそのような事は知りませんでした。それで我々が病院開設の相談に県にいったところその期日はすでに過ぎているので開設許可は一切受けられない、と門前払いをくらいました。

しかし調べてみるとそれは法律ではなくいわゆる行政指導と言うものでした。日本は法治国家ではありますが、事、許認可に関しては法律よりも行政指導の方がしばしば優先します。それが法治国家ではなく、官治国家だと言われるゆえんです。私はコンサルタントとしてこのような日本独自の壁を打ち破る事を仕事としていましたので、役所のかべはたやすく打ち破れると思っていました。しかし医療に関しては他の許認可とはまったく別物でした。専門家に調査してもらいましたが「有川さん達の病院の許可はまったく不可能です」というのが結論でした。

許認可権は埼玉県にありますが、厚生省が大きな権限をもっています。その厚生省が絶対だめだと言っています。なぜならそれを認めると駆け込み申請日と言われた制限の日付けを過ぎたものを受け付けなければならなくなり全国的に混乱が起きる、というものでした。その上医師会、大病院の反対や妨害もありました。しかし我々はめげずにあの手この手で県と交渉を重ねました。ホスピスなど日本にない施設の建設なのだから大変な意義があると強調し説得し続けました。

市民を見方につける事も考え署名運動もしました。1カ月で2万5千人の署名が集まりました。新聞社の人にも声をかけ、署名簿をもって大勢で県に出かけました。県の課長は怒り心頭になり、「このような事をしても無駄だ。」と叫びました。すると私は大声で「みなさん聴きましたか、この課長は公務員でありながら、憲法に保障された請願権を否定したのですよ。わかりました。それでは署名簿をもって帰ります。」といって帰りました。

すると夕方、「署名簿を受け取りますから明日お持ちください」という丁寧な電話が入りました。威勢のいい先ほどの態度とうって変わったしおらしい声でした。それでさらに大勢の人を誘い、県に出かけうやうやしく署名簿を提出し、その模様は新聞報道もなされました。その他いろいろ攻勢をかけていたところ、あるとき担当課長から電話があり、「今夜10時に会いたいが都合はいかがか」というものでした。無論私に依存はなく、「そんな遅くまで県庁は開いているのですか」と尋ねたところ、「いや荒川の堤防でお願いしたい、有川さん1人でおいでください。私も自分の車で1人でまいります。」というものでした。そして「この事はだれにも話さないで下さい。」と念を押されました。あれから30年近くたっていますからもう時効でしょうし、課長もとっくに定年退職なさっているでしょうから書いているのですが、異例中の異例なことでした。

荒川の堤防は車1台が通るのがやっとの幅のところで真っ暗ななか指定された通り私は上流方向から、課長は下流方向からやってきました。出会ったところで私は課長の車に乗り込みました。課長は私に「誰にもこのような事は知られたくないのでこんな形をとらせてもらいました。有川さんの本音を聞きたい。」というものでした。本当に200床の病院建設をするつもりですか。と聞いてきましたが、我々は200床の病院開設を申請していたのですが、200床といえば大病院に属します。私の本音は100床あればいいというものでした。それで「いやいや100床あればいい」と回答しました。多分課長の今日の会合もそれぐらいの数で説得しようというものだったのでしょう。私が100床あれば十分というとホットした顔をしていました。そして「近いうちご連絡しますので、今日のことはくれぐれもご内密に。」と再度念を押されました。

そして県から呼び出しがあり、「衛生部の部長室にきてください。」というものでした。部長室にゆくと係長や係の顔はみえましたが、課長さんはいませんでした。「課長さんは?」と尋ねると,「胃潰瘍で緊急入院しました。」と答えられました。そして「みなさんの病院開設許可申請を受理することになりました。ついては100床でいいですね。」と部長は私達に念をおしましたが、院長予定の先生が「あと20」と最後の抵抗をしたので部長は苦笑いを浮かべ「分かりました。」と答えられ、病院は120床となりました。私は「ありがとうござました。よく厚生省も了承してくれましたね。」とお礼をいうと「いやいや厚生省は絶対だめだと言っているのですが、許認可の権限は我々にありますから。課長が少し前からみなさんの攻勢のため体調をくずし、このままでは我々はみな有川さんに殺されてしまう。命あってのもの種だと言う事で、許可することにしたのです。」と真顔で語っておられました。課長は県立ガンセンターに入院したということで、申し訳なくお見舞いに行く事になりました。

どのような施設をつくるか議論を重ねることになりました。私はあまり口を差し挟まないようにしましたが、幾つかのところには強く思いを述べました。

ホスピスはキリスト教精神から発足したものですが、我々は宗教色を持たせないということに決めました。しかし死んだ人とのお別れ会や精神的な相談や会議を行う部屋が必要です。亡くなった方の安置所として病院には霊案室がありますが、それとは違ったものです。欧米のホスピスはチャペルがありますが、無宗教ということで私は会堂と名づけた施設を作りました。ユダヤ教ではその教会をシナゴーグ
(会堂)といいますが、日本ではほとんど知られていないのでそれでいいということになり、チャペルの代わりに会堂と名づけた施設をつくることになりました。

運営についてもいろいろ議論がなされました。待望の工事もはじまり建物の全貌が見えはじめたとき、ホスピス運営会議の席上である法律家が「ホスピスは法的に問題がある。」といい始めました。「病院は法的に患者がくれば治療する義務があり、治療しないというのは医療法違反だ。」と言いだしたのです。おどろいた私は厚生省に相談に出かけました。すると厚生省は我々の事を良く知っており、「その方の言う通り医療法違反です。」と言われました。しかし我々が建設をはじめたころ、浜松の聖隷三方ガ原病院や大阪の淀川キリスト教病院ではホスピスケアが始まっていました。その事をいうと「いやそれらは既存の病院でことですから、その中でどのような医療が行われているか我々は関知出来ないことです。しかし有川さん達は始めから医療法違反のことをする病院ということですから、御承知の通り病院の新設は開設許可とともに、使用以前に使用許可を出さねばならないのです。始めから違法な医療(ホスピス)をやるといっている以上、使用許可を出す事は出来ないのです。」私は青くなりましたが、係官は笑って「いや心配しないでください。有川さん達が我々厚生省に逆らって新病院を建設するという話を聞き、又それがホスピスを設置する事が目的だと聞いて、日本ではじめてホスピス開設を目的とした病院が出来るというので、我々もそれに合わせて行動しようときめたのです。将来の日本にとってもこれは絶対に必要な施設です。しかし今の医療法では問題があります。それで我々は内閣法制審議会にこの問題を諮問しています。有川さんたちがホスピスを開業するまでには間に合うと思いますよ。我々は有川さん達の勇気ある取り組みに強い関心をもっています。是非がんばってください。」と言われました。そして病院開設1カ月前、係官から「内閣法制審議会から許可が出ました。安心して続けて下さい。この事は県にも伝えておきますので使用許可も心配ないと思います。」という電話がありました。

次に大きな問題は看護師の問題でした。今でも病院は看護師募集に苦労しています。当時は今以上に深刻な問題でした。医師会は我々の病院開設に大反対でしたが、そのうち医師会の先生達は反対をやめました。その理由は開業しようとしても看護師は集まらない、したがって開業は不可能であろうというものでした。

病院開設にあたりおよそ70人ほどの看護師が必要でした。その数がそろわないと病院の使用許可がおりないのです。その上県から「開業にあたり病院から半径20キロメートル以内にある病院や診療所に勤務している看護師を採用してはならない」と注文をつけられました。医師会の最後の抵抗でした。看護師募集には知恵をしぼりました。そして募集を開始したところなんと200名もの応募がありました。面接でふるい落とさねばならないとは夢にも思いませんでした。説明会には近隣の大病院の看護師も“スパイ”としてきていましたが、帰ってから理事長に報告したところ「有川はどんな手品を使ったのか、我々が新聞半ページもの大広告で看護師を募集しても1人か2人ぐらいしか応募がないのに」と言っていたそうです。

運営に別の問題も生じました。ホスピスにおいて患者の苦痛を和らげるためモルヒネを大量に使用します。そしてそのモルヒネはシリンジポンプといって、少しずつモルヒネを体内に入れる器械が必要でした。しかしそのようなものは日本にありません。イギリスに行かねば手に入らないのです。おまけに医療器械を輸入し、それを使うとなると厚生省の認可がいります。とてもそんな時間もノウハウもありません。

それでホスピスで働く予定の医師にイギリスに行ってもらい手で運んでもらうことにしました。医師であれば研究用ということで税関に申告すれば日本に持ち込む事はできます。しかし本来であれば広く患者に用いてはいけません。しかし研究なら許されるのです。かぎりなく黒に近い灰色ですが、患者のため、もっと言えば日本のためになると確信していましたから、私もその医師もためらいもなく実行しました。その医師はそののちホスピスで有名な医師になりました。

厚生省の係官もこの事を知っていました。そして大手の医療器械メーカーの担当者を呼び出し、私のところにゆきシリンジポンプを借り受け同じものを作って欲しいと要請しました。メーカーの担当者がきて器械を借りたいというので私は喜んで貸出しました。するとそのメーカーはあっという間に製品化し、厚生省も異例の速さで医療器械の認可を与えました。

そしていよいよ病院のオープンとなりました。新聞に「関東地方で初のホスピス開業」という記事が出ました。そして記念すべきホスピス初の患者が入院してこられました。元大学教授とかで新聞記事をみて遠くから入院してこられました。ところがその夜ホスピスコーデイネーターから電話がきました。ホスピスコーデイネーターとは私が作った役職です。昔、人はほとんど家庭で亡くなりました。そのとき重要な働きをしたのは主婦です。それでホスピスで患者と医療者の間に立ちいろいろ調整をする役割を果たすようにと願いつくりました。優秀な一人の女性が病院建設とホスピス開設に尽力していました。彼女にこの提案をして新しく作ったポストに就任してもらいました。彼女もやがてホスピスの世界で有名人になりました。その彼女から電話があり「院長が入院患者の希望も聞かずガンの治療を始めてしまい、患者がここはホスピスではなかったのかと怒っている。なんとかして欲しい。」というものでした。

院長はガン治療に熱意をもっている人でしたから、重いガン患者をみてうれしく?なり勝手に体が動くのでしょう。私はさっそく院長に電話をしました。院長は「有川さんあなたは病院運営には口を出さない約束だったのでは」といいました。しかし私は「そうですがホスピスだけは別です。そのために病院を作ったのですから。」すると院長は「ホスピス運営の打ち合わせで患者が希望すれば治療をするということだったでしょう。」というので「そうです。それで先生、患者に治療してほしいかどうか聞きましたか?」と尋ねました。院長はだまってしまいました。「患者はホスピス開業の新聞記事をみてやってきたのです。患者は治療を一切望んでいません。それでホスピスケアだけをしていただきたいのです。」と私は言いました。それ以来院長はあまりホスピスに関わらなくなりました。

医師達は頭では分かっていても、いざ実践するとなると実にぎこちないものでした。当然です。患者をみれば治療するのが本来の役目ですから、病院にきた患者に「治療して欲しいですか?」と尋ねる風景は、傍でみていてもぎこちなく滑稽でした。しかし医師が治療について患者の希望を聞くというのは実に革命的な事でした。

開業の新聞記事をはじめとしてマスコミは一斉に報道を始め、ドキュメンタリー番組も4本も作られ、その内2本はなにかの賞をとりました。最近もNHKでその頃につくられたドキュメンタリーのひとつが再放送されていました。あまりに頻繁にマスコミに登場するので地元医師会では「芸能病院」とやっかみ含みで揶揄していました。

私はあくまで黒子に徹していましたので表面に出ることはありませんでした。しかし世間で評判になるほどやがて私はホスピスに興味を失いつつありました。私はクリスチャンですから死は当然の事として受け取っていました。欧米のホスピスの記事を読んでそれにあこがれホスピスを作ったのですが、日本人の死生観は私のもつ死生観とはまったく違うものでした。私は子供のとき欧米の宣教者に囲まれ、そのように育てられましたから、日本の風習もまったく分からず育ちました。たとえば今でも年賀状は書きません。おまけにそのころガン告知も一般的ではありませんでした。それで我々のホスピスでも患者に関するガン告知は一律にはしないという事になりました。ガン告知のないホスピスなんてなんだと言うのが私の気持ちでした。それで除々にホスピス運営から離れ事業拡大の道を歩むこととなりました。

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